卒業研究と進路決定は、本当に悩んだ。大学3年生になったとき、当初の学者になるという目標はあきらめた。その理由は、わたしの専攻した物理学の本質の理解が難しすぎるからだ。
物理で成功するためには、物理学の本質的な理解が必須であるが、一生懸命物理を学んでも、5%以下の学生しか本当の専門家として生き残れないことが分かってきたのだ。物理にあこがれのある多くの学生がこの悩みに遭遇・直面する。
考え抜く力を思い知らされる学問である。物理学は、成功する人は少ないが、素晴らしい学問だと思う。学ぶ過程で物理学の本質的な側面、哲学的な思考、数学を道具として使いこなすこと、物理の原理を現実世界に応用する創造力と才能、物理学の美しさなど。私は、物理を専攻してわからないことが分かったのだ。この点には悔いはない。私は、物理系の専攻を諦め、当時新しい情報系へと進路を変更した。まさに、物理で挫折したことが今のITの仕事に活きていると思う。
大学生活の後半は、挫折から新たな方向を探る時間になった。真剣に人生に悩む、物理で挫折したことに何を見出したか。何事も原理原則がわからないと何も生まれないし、どうにもならないこと 学業で身を立てることより、未知への分野を切り開くことへと関心が移っていく。
留年中に渡米し、海外での新たな体験をする。時間があったので両親と相談し半年間米国でホームスティをすることになった。なんと、私の叔母(父の妹)がシカゴ郊外の田舎町に住んでいて、就職活動が始まるまでの間、アメリカに住むことになった。アメリカで家庭に居候しながら、ひたすら新聞、テレビ、従弟の友達との交流などを通じて英語漬けの生活が始まった。
1970年代後半のアメリカは、日本製品(車、家電など)にアメリカの産業が押されていて社会問題になっていた。叔母の旦那さんはドイツ系アメリカ人で、USスチールにマネジャーとして勤めていた。日本の鉄にアメリカの製鉄会社が圧迫されているので、日本車には絶対乗らないと言っていた。親戚の私には良い感情を持ち、優しく接してくれたが、アメリカの産業が日本の製品に席巻された時代で、当時のUSスチールは日本の製鉄会社とライバル関係になっていて、経営的に厳しい時代であった。
現在トランプ政権になって、同様の悩みがアメリカにあるが、私の感覚では、私の渡米当時の方がアメリカの製造業は深刻な状態であったと思う。
一方でアメリカの中流家庭の生活には、日本とは違った豊かさがあり、従弟や叔父叔母と生活を共にできたことを私は、感謝している。当時のアメリカの中西部のイリノイ州、インデアナ州の人々は、勤勉で真面目に生活しており、アメリカの製造業、農業を支えていた場所である。
いまでも、ニューヨークでもない、カリフォルニアでもない中西部の勤勉なアメリカ人がアメリカの経済を支えていることを、私たちは理解しなければならない。
私は、この体験により海外へのあこがれが強くなり、海外・英語へのアレルギーがなくなった。
夏から秋に入るころ、渡米中に大学の友達から連絡が入った。そろそろ就職活動をしないと手遅れになるよ。なにのんびりしているのか、帰国しろよと。アメリカでのんびりしていた自分がいたが、自分の置かれている状況をはっと理解した。アメリカ最後は一か月以上かけたアメリカ、カナダの放浪の旅を経て、その後帰国した。
就職のターゲットは、大企業でなくても良いので、グローバルで活躍できそうな技術系の企業に絞った。結果として私が入社したのは、トッパンムーア(現在は、トッパン)というトッパンとムーア社の合弁会社であり、配属されたのは、新たにIT事業を始めたばかりの若い組織であった。
大学最後のUS旅行にTrailwayで出発した。(TrailwayはUS全国に運営されている有名なバス会社)
シカゴ郊外のPrinstonをデンバーにむけて走り、ネバラスカ州のあたり

US旅行の中盤でデンバーに到着。標高4000メートル級のPikes Peakへ、レンタルしたマスタングで向かうところ。

