前回は、テレワークをテーマに取り上げた。今回は、コロナショックにより、生活が極度に制御されることによって認識の変化が生まれることについて触れる。その変化の良いところに気付けば、そこから新たな価値が生まれる。
正に、コロナがあったからこそ生まれた価値があるという有難い話である。
2ヶ月余りのコロナ対策下の生活で、得たもの・失ったものについての話題がいろいろあるだろう。飲食業、ホテル業、旅行などのサービス業界は、売り上げが消失してしまった。製造業も大きな打撃を受けている。自動車などの耐久消費も生産できない分、売り上げが消失する。しかもサプライチェーン全体での消失である。新車が必要だと思っていた人々が、買い替えを先延ばしする。正常化しても取り戻せないので、やはり消失といえる。
私どもITサービス業においては、プロジェクトの開始が遅れるという現象が起こっている。期間がずれることは、投じられる予算が変わらない限り、“消失”よりも遅延であると解釈する人がいるが、実際は、消失そのものである。なぜならば、投じられる工数を他に持っていけないので、やはり消失になるわけだ。芸術、文化、音楽イベントなどは、機会が失われた。コロナショックで失われたものを挙げればきりがない。スペイン風邪が流行った時代にも、世界は同様の経験をしている。しかし、当時より医療と情報技術が格段に進歩していたり、生産や消費活動が世界中とつながりを持っていたりして、対応策については、過去のノウハウは通用しない。この時代の人類にとって、初めての経験に近いと言える。
世界にまたがって起こった事態により、失ったものは、確かに多い。だが、この経験によって得られた“認識の変化”そのものに価値があるのだ。モノ、金のたぐいは、今までにないほど失われたが、人類全体としての同時体験は、貴重だと思いたい。この貴重な体験を活かそうではないか!前回のブログでもコロナショックを池に例えて、“池の水を抜いたために分かったこと”について述べたが、今回は、もう少し掘り下げてみよう。
人間は、脳の中にも癖がついていると言われている。認識の変化は、普段当たり前と思っていることは、実は、心についた癖の一種であり、「Aは、Bである」という反応的な(改めての判断を行わない直感的な)判断を人間は行っている。例えば、靴は、右から履くという習慣は、右足から履くことに意味があるわけではない。なぜ、右から履いているの?と聞いても自分では答えることができない。脳についた癖には、意味が明らかなものと、意味が分からないまま習慣化したものがある。例の靴の話しであるが、ある日、左から履くことに決めて実行したとする。毎日、実行続けると2週間後には、左足から履くことに違和感がなくなるそうだ。その後は、一生、左足から靴を履くことになるそうだ。
私たちの中で、習慣化している仕事に対する認識の一部は、靴を履く習慣と似た面があると私は考えている。
例えば、
・会社に行って仕事をするのが当たり前で、成果が上がる。
・重要なことを決めるには、対面で関係者が会って話をすることがもっとも良い。
・仕事を集中し、生産性を高めるには、一堂に集まり、ワンチームで実施することが望ましい。
などである。
本当であろうか?
コロナ以前は、正しく判断しているつもりであった。しかし、2ヶ月近くテレワークを経験すると、以前の当たり前の判断に疑問が生ずる。この経験は、多くの人が感じているのではないか。医療の現場は、強烈に認識の変化が起こっていて、我が国の医療は、大きく進歩することを確信する。日本の医療制度や医療におけるコロナ戦略により、また医療従事者のリスク立ち向かう努力と技術水準の高さにより、多くの人命が救われたことは確かだ。医療関係者の方々には、心から感謝している。
このコロナショックを私は“機会”と捉え、仕事上の習慣の棚卸を行なってみた。
・人生とは何か?
・自分が、本当にやりたいことは何か?
・働くということは、自分にとってどのような意味があるのだろうか?
・どんなライフスタイルを望んでいるのか?
・仕事とは何か?
・家族とは何か?
・家庭とは何か?
・通勤とは何か?
・友達とは何か?
・生きがいとは何か?
・豊かさとは何か?
・健康とは何か?
・地位とは何か?
・お金とは何か?
・故郷とは何か?
今、世界で起こっていることを直視し、シンプルに自分が棚卸したことを根本から考え直し見直そう!この貴重な時期に自ら結論を出そう!
ここで決めたいくつかのことが、その後の人生を豊かにするに違いない。
さて、次回はコロナ前にブームになった、DX(デジタルトランスフォーメーション)についての影響を語ろうと思う。