セルバンテス作の「ドン・キホーテ」の名言で、理化学研究所理事長である野依良治氏が、日経新聞 私の履歴書において、研究者としての心構えとして書かれた言葉としても有名となりました。
さて今回のブログでは、最近話題となっているSTAP細胞の報道を目にしながら、我々の仕事において今回の出来事から得られる教訓は何だろうか?と強く感じたことをお伝えします。
まず事実は真実の敵なりで最初に思ったことは、ダイバーシティ・マネジメントです。
ウィキペディアによると、個人や集団間に存在するさまざまな違い、すなわち「多様性」を競争優位の源泉として生かすために文化や制度、プログラムプラクティスなどの組織全体を変革しようとするマネージメントアプローチのことであると書かれています。
ここで言うさまざまな違いとは、人種、性別、人種、国籍、宗教、障害、性別、性的指向、年齢などのほか、個人や集団の間で違いを生み出す可能性のあるあらゆる要素を指すと書かれています。
また世界各国共通で言われていることとして、「最近の若い者は・・・」で代表される世代間ギャップ、つまり価値観の違いなども、ダイバーシティ・マネジメントの対象となるようです。
価値観が異なると、例えば本人は良かれと思って行動していても、相手から見ると迷惑だったり、いい加減に見えたり、真剣さを欠いたような感覚を抱きます。すると本人が伝えたかった真実と相手から見える事実は異なります。
しかし私もそうですが、人は自分が見た事実に対し、これまで自分が培ってきた経験や価値観というフィルターを通して、その事実から見えた自分が感じたことを真実として判断してしまいます。
そのため自分が感じたことの妥当性を検証するべく、相手と対話する気持ちと行動力があれば、その溝は埋まってきます。
しかしその対話を怠り、自分の価値観を相手に一方的にぶつける(攻撃的な)行動を取ると、相手は防戦します。その結果、パワーバランスで物事が決着してしてしまいます。
決着した内容に正当性があれば良いのですが、そうではない決着を見た場合は、議論に負けた側は面白くなく、その後はやらされ感で言われたことを黙々とこなす行動を取ります。
では真実とは何なのでしょうか?
さらにウィキペティアで調べてみると、科学関係であれば、人によらずに客観的現象を客観的に測定することで、事物自体を試すことが出来ることのこと。一方で哲学の分野になると、難しいことになります。
<哲学分野に関する概論>
「真実は複数あるが、事実は1つしかない」のようによく言われる。多くの場合、真実は事実に対する人の評価(真偽)を伴う。そのため、しばしば、「信念」や「信義」と連関することがある。その意味で、真実はカントの言う権利問題である。真実および事実は認定が必要である。裁判所における「事実認定」には、カントの言う事実問題における認識のほか、同じく権利問題における認定を伴う。権利問題のクラスにおいては、真実は人によって認識(認定)が異なるとするのが通常である。しかし、事実問題のクラスにおいて見ると、1つであると通常は考えられている事実も、一義的なものではないとされる。
哲学的には、たとえば、認識の主体と客体について考えてみると、「現実」は主体から見た客体に対する視点の問題であり、「実在」は主体から分離された客体としての「存在」であり、「現象」は主体が認識した客体であり、また「存在」は「現象」により構成される。そのため、「主体」は「現象」により構成されないものを「存在」として認識することができない。そう言ったものをカントは「物自体」として仮定した。
色々と書いていますが、つまり真実とは、人の認識により異なるとのことです。
我々が身を置いているICT業界で行われる企画・開発・保守などの取り組みにおいては、必ず人と人とが協調しながら事に当たります。
例えばシステム上の課題は、科学的な分析により起こっている事実から真実を見つけ出すことが出来ます。しかし発注者と受注者、上司と部下、性差、年代差、経験・スキルの差などから生じる組織対組織の葛藤、人対人の葛藤において、事実から真実を見出そうとするためには、真摯な態度でWin-Winの関係となるように粘り強く対話をし続けることが、結局は最も重要なことではないか!
STAP細胞の報道を目にしながら、そのようなことを強く感じました。