人は、なぜ、ペットを飼うのだろう。人は、なぜ、ペットを愛するのだろう。
我が家には、長野で生まれた柴犬“ころ”がいる。5歳でメスである。
“ころ”は、妻の友人から紹介された長野の犬だ。次男が犬好きで、大学に合格したら犬を飼いたいと言っていた。犬を引き取りに行った時、その家の老婆が“ころ”との別れを悲しんで泣いたという。
今、 “ころ”の面倒は、もっぱら妻の仕事となっている。2年前までは、人間4人と“ころ”の五人家族が一緒に住んでいた。しかし、私が、出張、ゴルフなどで家を空けることが多く、子供たちも就職して次々と家を出たため、我が家は実質的には、妻と“ころ”の二人家族になった。妻は、いつも“ころ”に「・・・だよね~」と言って話しかけている。“ころ”は、妻の大切な話し相手になっているようだ。
犬は、人間の気持ちがわかるとよく聞く。言葉は分からない筈なのに、表情や雰囲気を察知し行動できる。
逆に、よく観察すれば人間だって犬の気持ちも察することができるかもしれない。事実、昨日は、久しぶりに朝の散歩に誘ったが、“ころ”は妻が行かないのを確かめたのちに、しかたないな!気がのらないけれど出かけてやろうか、という態度。私は、仕方なくついてきた“ころ”の機嫌を気にしながら、元気にさせようと走ったり、話しかけたり。新しい経験をさせようと、わざと行ったことのない道にチャレンジしてみた。最初のうち“ころ”は、随行してきたが、初めての道で不安になったのか、途中で、「いやいや」をやりだした。“ころ”の「いやいや」は、首輪についているリードに足をかけて、引けなくする。はじめ偶然リードが足に引っかかったのかとリードを解いてみたら、またひっかかったので、「いやいや」とわかった。こんな風にして“ころ”は、コミュニケーションを取ってくる。いろいろなサインを飼い主に送ってくるのだ。 私のチャンレンジは、 “ころ”の「こころ」に不安を生じさせてしまった。“ころ”の送ってきた「いやいや:不安」サインを私はすぐさま察知した。「心配ないよ!家へ帰ろう!」
家が近づくにつれて“ころ”の足取りも軽くなり、母の待つ我が家へと喜んで帰ったのであった。私も“ころ”も思わず良かったねと顔をほころばせた。
人が、動物に癒しを感じるのは、コミュニケーションが、カギになっていると私は思う。癒しの意味は、辞書によれば、「肉体の疲れ、精神の悩み、苦しみを何かに頼って 解消したりやわらげたりすること」とされている。“ころ”がサインを送りその「こころ」を私が察知する、このような人と動物との双方のコミュニケーションにより、人の「こころ」の何かが解消され「癒される」。だから人はペットを飼い、愛するのだろう。
動物は、言葉こそ使えないが、優れたコミュニケーション能力を持っている。では、人は言葉こそ使えるが、果たして“ころ”ほどのコミュニケーション能力を持っているだろうか。この時代、どれほどの人が自信をもって「イエス」と答えられるか、心もとない。
わたしたちは、人間同士だと(動物との間のように)「こころ」を伴った本当の双方コミュニケーションがなかなか難しい。だから、「癒されず」殺伐としてしまっているのではないだろうか。
私は、“ころ”に癒されつつ、人と人とのコミュニケーションの困難さを改めて思うのである。