ビジネスのことばかり一日中考え議論し、仲間との飲み会の後、深夜に帰宅し床につき明け方まで熟睡してしまった。
どれくらい眠ったのだろう。明け方になると愛犬、“ころ”が、起こしに来る。大体、5時から6時ごろだ。「いつまで、寝てるんだよ~、早く起きてくれないかな~・・・」と愛犬が意思表示をする。一度目は、無理に起こそうとしないで様子を見ている。諦めて、15分後に再度起こしに来る。主人が諦めて相手をするまで待っているのだ。
久しぶりに、気温も高くなく、良い眠りができた。春とはいえない梅雨明けの夏であるが、私の感覚は、まさに春うららだ。この気温ならもっともっと寝ていたい気分。もう少しこの時間が長ければよいのに。そろそろ、“ころ”が、起こしに来る時間だ。遅めに来てほしいが、今日は、どうだろう。昨晩からの雨風は、明け方まで続いていたが、妙に少し開けてある窓から入ってくる風が、心地よい。隣にある迎賓館から鳥の声が聞こえる。私の住まいは、大森であるが、駅から一キロほど入っているので周りは、比較的、緑も多く静かなところだ。よく耳を澄ませば、2~300メートル離れている横須賀線や新幹線の音、様々な鳥の鳴き声も聞こえる。家を出ると風雨の強い日の翌日は、木の枝、葉、花が道に散っている。
昨日も今日も特別のことがあった訳ではないが、人間として自然を素直に受け入れる感覚を保つことは必要だと思う。昔の人は、現代ほど文明が発達してなかったために、もっと、自然と向き合っていたのだろう。
こんな朝、高校の授業で習った漢詩が浮かんできた。不思議とこの詩だけは、暗記している。昔も今の変わらないのは、自然と向き合う姿勢、感覚。自然の中に生かされているということを忘れてはならない。
夢心地の中、実際に外を見なくても小さな音や気配からはっきりとした情景が動画のカラー版で浮かび、さらに、美しいと感じる。
私たち現代人は、8世紀に孟浩然が、感じたような同じ自然を認識できているだろうか。自然を慈しみ受け入れる心を現代人は、失いつつあるかもしれない。
「春暁」を読み自然に対する記憶を蘇らせよう。
春眠 暁を覚えず(原題「春暁」) 唐・孟浩然(もうこうねん)(689~740)
春眠不覺暁(春眠 暁を覚えず)
處處聞啼鳥(処処(しょしょ) 啼鳥(ていちょう)を聞く)
夜来風雨聲(夜来(やらい) 風雨の声)
花落知多少(花落つること 知るや多少(いくばく)春の夜明けはうとうとと
小鳥のさえずり あちこちに
夕べは雨と風の音
花はどれほど散ったやら
この漢詩を井伏鱒二(1898~1993)は、以下のように訳している。
ハルノネザメノウツツデ聞ケバ
トリノナクネデ目ガサメマシタ
ヨルノアラシニ雨マジリ
散ッタ木ノ花イカホドバカリ
(「厄除け詩集」より)