能登原
梶川さん、お久しぶりです。この間お会いしてから2年ぶりくらいですか。最初にお会いしたのはもう5~6年前になりますね。
梶川
私は1998年7月から家庭用品販売会社A社のIT開発マネジャとして移籍したのですが、その翌年の9月ころですね。
能登原
もともと弊社とのお付き合いが始まったきっかけは、梶川さんが弊社のホームページをごらんになって、お電話をいただいたからと聞いていますが。
梶川
電話でなくてメールなんです(笑)。当時A社は経営改革の真っ最中で、いろいろなIT案件が出てきており、私はIT開発マネジャとして基幹系システムの開発やe―コマースをはじめ、4,5本のプロジェクトを同時に行わなければならなかった立場にあったんです。でも、その組織ではそれまで経営変革を推進するための中規模以上のプロジェクトを体系的に同時に回した経験値がなくて、差し迫った課題を抱えてどうやって回したものか悩んでいました。
たまたまA社が基幹系システムとしてIBMのAS400システムを使っていたものですから、インターネットで「AS400」と「プロジェクトマネジメント」という2つのキーワードでYAHOO!検索したんです。そうしたら検索結果が4つか5つ出てきた。
そのなかに「アイ・ティ・イノベーション」という会社名があって「AS400」って書いてある。クリックしてみたら、プロジェクトマネジメントが専門らしい。「おっ、これは面白そうな会社だな」と直感的に思いました。
そこで夜の10時ごろメールを書いたんですね。「A社のIT開発マネジャの梶川と申します。このような案件で今力になってもらえるパートナーを探しているのですが、御社では可能なものでしょうか?」というようなものを。それで翌朝会社に来たら、夜1時前のタイムスタンプで社長の林さんから直々にメールが来ていたんです。「えっ、こんな真夜中に社長自ら返事を返してくれるんだ。反応がえらく早いな」ととても印象深かったのを今でも良く覚えています。早速その朝電話でお話して、その2日後か3日後にはもうお会いしたんです。電撃的な出会いでしたね(笑)。
能登原
きっかけを梶川さんのほうから作っていただいたんですね。
その当時、梶川さんが手がけていらした複数のe-コマースのプロジェクトは規模がだいぶ大きいもので、A社さんにとっては基幹系の重要な仕組みの一部だったと記憶しています。それをアイ・ティ・イノベーションが、プロジェクトマネジメントだけではなく、もっと中に入り込んでやらせていただきました。
梶川
最初は複数の大手SIベンダーが参加しているプロジェクトのプロジェクトマネジメント(PM)が主な役割だったんですけど、実際に活動してもらうと顧客側の視点に立ってくれた活動でフットワークが良い上にドキュメントなどの品質が高かったので、次に要件分析業務もお願いしたんです。A社独自の会員向けシステムがあったんですけれども、新システムへのリプレースメント時の事前のリスク・アセスメントをしてもらったり、基幹系のシステムの現状をデザイン面で分析してもらったり、最後にはe-コマース導入のテストフェーズでデバッグまでしてもらいましたね。
当時一番のチャレンジというのが、大手SIベンダーのC社、D社、E社、それからわれわれの開発部隊も含めて、マルチベンダーが参加しているプロジェクトだったことでした。
能登原
そうでしたね。
梶川
そうすると、プロジェクトを運営するうちにどうしてもスペック的に未解決の課題や役割上の曖昧な個所など、複数のベンダー間でお互いに相手に期待してしまっているグレーゾーンができてしまう。でもSI各社の担当者は「それはうちの担当ではありません」と言うんですね。
能登原
最近のプロジェクトには特にその傾向がありますね。似たような事態があちこちで起きています。
梶川
そのグレーゾーンのリスクを、全部われわれA社がとらなければいけないのか、というときに、アイ・ティ・イノベーションが顧客側のスタンスでサポートしてくれて、それをうまく切り盛りしてくれたんです。ものによっては、大手SIベンダーに「ここのスペックがおかしい」と詰め寄ってくれたり、完全に顧客側に入り込んでやってくれました。結果的にはSIベンダーさんも随分助かったと思いますよ。
能登原
われわれの言っている「わが社は顧客のエージェントである」という役割を、梶川さんにうまくまとめていただいてしまいましたね。
梶川
あの時は「ベンダー側がユーザーにリスクを押し付けているな」というのが見え隠れていましたから、エージェントとしての役割はとても助かりました。つい最近も某SI会社に見積もりを出してもらった上でコンペをやったのですが、未だにSIベンダーさんの基本的な姿勢って残念な事ですが全く変わっていませんでした(笑)。多分、リスクをとらないように訓練されているんだと思います。
それをうまく引き取って役割分担に落としてくれるパートナーさんがいるんだな、というのは新鮮でとても頼りになる存在でしたね。
能登原
弊社のホームページをごらんになった印象通り、ご期待に添えましたか?
梶川
あのときは、まず社名に「イノベーション」とあったのが気に入ったんです。それに会社の説明には「少数精鋭」ともあり、大きな価値を提供して頂きました。プロジェクトの運営全般に関して、他社のSIベンダーには無い付加価値を感じました。
能登原
当時は今よりさらに少数精鋭でしたから(笑)。
能登原
梶川さんの場合は、優れたプロマネであることにとどまらず現在の会社ではCIOでもいらっしゃるので、プロマネへの道だけでなく「CIOへの道」についてもお伺いしたいんです。
また若いころにどういう考え方で勉強したりチャレンジしたり、どのような経緯を経て現在のようなリーダーになられたのかといったことにも非常に興味があります。最初のころから順を追ってお話いただけますか?
梶川
私は学校を卒業してずっとIT関連でやってきているんですけれども、働き始めた当時から、インテルの80系プロセッサーが生まれたとか、マイクロソフトのMS-DOSが生まれたとか、そういう時代を横目に見ながら「将来何かが起こるんだろうな」という好奇心と何か大きな変化が起こりそうな漠然とした予感を持っていました。
実は25年くらい前の話ですが、学校を卒業するときに、当時のアスキー出版社に入ろうと思って電話したことがあるんです。そうしたら「うちは社員が7人しかいなくて、新卒は採用していないんですよ」と言われてあきらめました。後で、あの時無理やり入社していれば後々マイクロソフトと組んで仕事ができたんだな、と思いましたよ。インテルにも興味があって電話をしたら、世田谷営業所というところに当時まだ6人くらいしか社員の方がいなかったらしく「新卒は採用したことがなくて…それでもよければ営業の枠ならあります」といわれました。もっとテクニカルなほうに興味があるといったら、せいぜい技術営業なら可能だとといわれて…。どちらも社員が6人とか7人とかしかいない、本当に当時はまだ小さな規模の会社でした。でもその後の成長の予感はしていたんですが。せめてあの時この2社の株を買っておけばよかったと後で何度か後悔しました(笑)。
能登原
なるほど(笑)
梶川
そういうことがあって、結局卒業後は大手電機メーカーのコンピュータのソフトウェア部門に入ったんです。府中の事業所でした。そこには、オフコンのOSやファームウエアを作っていた150人くらいの部隊がいたんです。それが10人ずつくらいの小グループのモジュール毎の縦割りなんですよ。このグループはディスク制御まわりとか、このグループは通信コントローラーとか、もう完全に縦割り。朝8時15分から夜の9時45分が皆さん定時で。
能登原
すごいですね。ソフトウェア工場もそういう感じですけれど。
梶川
朝一回ラジオ体操があって(笑)。私はそのモジュール毎の縦割りの担当制に馴染まないと感じて、もっといろいろ広くやりたいということで、今度は幅広く経験できそうな小さなシステムハウスに入ったんです。
能登原さんはインテル8080系でCP/MというOSはご存じないと思いますけど…
能登原
いや、よく知っていますよ(笑)。CP/Mの68系を会社に入っても使っていましたから。
梶川
日本のメーカーで、当時の世界最小のポータブルコンピュータを作りたい会社があってエンジニアを募集しているというのでそこに入社したんです。ハードウェアは日本で作った上でUNIXの移植をするんです。そこでCP/M68KとUNIX系のOS-9、あれは24年前でしたので16ビット版68000UNIXを使いました。
能登原
インテルに比べてメモリマップダイオードがついていて、技術者から見ると洗練されていましたよね。
梶川
仮想空間メモリもサポートするマルチバス規格と呼ばれるスタンダードがあって組み合わせ自由のコンピュータが作れるんですが、そのときにUNIXのカーネルに初めて触ったんです。OS-9はROM化できるという特徴があって、カーネルがコンパクトでサイズがとても小さい。いろいろな通信アプリケーションもシリアルポート経由で入ってきたデータを処理して返事するまでに2ミリセカンドとか、とても速いんです。しかもROM化できるということで、パワーオンタイプで産業機器に向いているんですけれど。そこでUNIXの一種のOSの中身を初めて見て、「これはすごいな」と思ったんです。
ただしそのうち、IBMとかMS-DOSのパソコンがどんどん出てきて価格は下がるし、ブランド力はそちらのほうがあるし、という状況になりました。こうなると日本のコンピュータのハードウェアメーカーが生き残っていくのはマーケット的に見ると大変だな、と思ったんです。そこで、これからは何が伸びていくだろうと考えたら、情報だ、と思い至った。伸びていく分野は「情報とネットワーク」じゃないか。
そうしたら、ある外資系の老舗通信社F社が開発エンジニアを求めていたので、そちらに移ったんです。結局システムハウスには4年いて、それから通信社に移りました。
能登原
その時期に「次は情報とネットワークだ」と目をつけるのはすごいです。まだインターネット誕生の前ですよね。
梶川
ええ、当時はインターネットのない時代でした。F社は世界中にネットワークを張り巡らしていた中では当時は二番目の規模だったんです。一番目がアメリカの国防総省。民間ではF社が一番だった。
能登原
へえ、そうだったんですか。
梶川
そのビジネスモデルは、ネットワーク自体がビジネスなのではなく情報自体にチャージ(課金)しています。当時F社の「グリーン・モニタ」と呼ばれる端末があったんですが、そこに為替情報をはじめ、「戦争が勃発した」「事故があった」「利上げを行った」などさまざまな世界中の緊急情報(アラート)が流れるんです。それで当時は、その端末一台で年間で一千万円程度の情報が売れていたんです。銀行向け、金融企業の専門トレーダー向け、そのほかでもメーカーなど為替を扱うところはすべてこのネットワークに入って情報を購入していました。
能登原
そういえば、私が以前勤めていた会社も為替に関係していたのでF社のネットワークに入っていましたね。
梶川
すごいなと思ったのは、地球の裏側で情報を入力すると0.5秒後には地球の裏側のグリーンモニタでその情報がもう点滅している。そのたびに世界中でお金が何百億円という単位で動いているらしいんです。ちなみにF社の商売のネタは「中立で、正確で、速い」というのがコア・バリューでした。それは創業100年以上経った今でも変わっていない。19世紀末にロンドンの株式市場の相場情報をヨーロッパの主要都市の投資家に向けて伝書鳩を使い、それ以前はパリまで3日かかったのを6時間以下に短縮したイノベーションの歴史を持つ会社でした。今は衛星回線等にとって変わりましたが、「中立、正確、速い」の価値は変わらない。そういったネットワークで情報をやり取りするのに引かれて、「これは面白い」と転職したのが、私の第2ステージですね。
しかし皮肉なことに、F社の誇る民間では世界で1番のネットワークが、その後必ずしも民間で最強の「強み」ではなくなってくるんです。