英国での生活
私が最初に渡英したのは、1985年です。バブルの前の時期で、日本の経済成長、海外進出が最も盛んな時代でした。渡英して、最初から仕事も遊びも手を抜くことなくどんどんこなしました。最初の一週間は緊張がありましたが、二週間目からは、毎日が楽しくワクワク、ドキドキの連続で、夜中まで動きまわる毎日になりました。訪問した国の文化に慣れるにはできるだけ長い時間接する事が大切です。
例えば、ある日の行動スケジュールは・・・
1985年8月XX日
BIS出社(9:00) ― ミーティング ― 方法論の日本語化に関するコンピュータ専門紙の取材 ― 昼食(サンドイッチ) ― 方法論の翻訳作業 ― ミーティング ― BIS社を退社(18:30 ) ― デビット・ブロートン氏・ピータ・セラーズ氏と近くのパブでビター(黒ビール)を2パイント(中瓶二本に相当) ― ソーホーの中華街で駐在員のK氏、O君と会食 ― パブで一杯 ― カラオケで五曲(11:00帰宅)
1985年8月YY日
駐在事務所へ出社(8:45) ― 日本への報告書作成/FAX送付 ― 昼食(シティーでとんかつ定食5ポンド:約1600円) ― BIS社のコンサルタントとクライアント(ガス会社)へ同行、提案書の説明会を実施 ― トットナム・コートロードのジャズクラブへ( 10:15帰宅)
渡英後六カ月間の仕事
最初の渡英の六カ月間に、私達は、次のような仕事を行うことにしました。 まず最初に、六カ月間の達成目標と詳細のスケジュールを作成して、トレーニング・コースに出まくりました。1つ1つのコースを丹念に習得しようとせず、次から次へとスケジュールを消化していきました。最初から質を求めてはだめ、実に強引なやり方です。
日本人の場合、英語という難題を抱えながら、未知のテクニックを習得しなければなりません。日本で、日本語で、日本式の環境で、同様の方法論の説明を受けたとしても、難解なところはあるに違いありません。分からなくて当然だという開き直りが、この手のことを実行するには必要です。また、どこまできても諦めないというしつこさ・根性も必要です。私は、まず場数を踏むこと、つまり、環境・習慣・カルチャーに慣れることが大切であると思ったのです。 さらに、慣れるだけではなく、楽しんでしまうことにしたのです。
方法論のトレーニングコースへの参加
私は、以下に示すようなコースに参加することによって、DOA方法論のテクニック全域を理解することができました。
特に、構造化システム分析コースとデータ分析コースは、私の方法論に関する基本的な考え方の基礎となりました。情報システムを物理的にどのように導入すべきかを考える前に、ビジネスの世界が現実にどのような構造になっているか、ビジネスの真の目標は何か、目標実現のための新しいビジネスの構造は何か、という問いに正確に答える必要があるという事実を知ってしまったことです。このビジネスの構造をはっきりさせることは、現在のDOAやCASEツールを利用したモデリングに他なりません。
また、私は、これらのコースから大変重要な事を学びました。モデリングの作業は、グループの作業であり、個人的に理解できているという事と、プロジェクトとしてそのテクニックが機能するという事は、全く別物であるという事です。私が、今日、ERモデルをはじめとする方法論の教育でワークショップを重視しているのは、これらのコースで、その重要性を体験したからであります。
さらに、標準のモデリングテクニックは、言語を超えて有効であるという事も経験しました。実際に、いろいろな国の初対面の人が、学んだばかりのテクニックを使って分析を行い共通の理解を得る事ができたです。
例えばバーミンガム郊外で開催されたデータ分析コースで私のグループは、2人のノルウェー人、元秘書の美人コンサルタント、この方はフランス人、普通のコックニーなまりの英国人、そして日本人の私です。英語を母国語としない人達が集まって、英語で、データ分析をしているのです。水曜日の夜だけはワークショップから開放され、英国名物パブ・ツアーです。5人メンバーが5件のパブをツアーして、互いにおごり合うのです。はっきりいって、しんどかったのですが、脱落したら日本人の恥だと思い頑張りました。
このように、1週間だけの多国籍プロジェクトチームは、コンセンサスを形成し、モチベーションを高めながら、少々体力は消耗しましたが、1週間を終えたのです。金曜日には、互いに別れを惜しみながら、それぞれの故郷へコンサルタントとして戻っていったのでした。
コンサルタントとの顧客への同行/OJT
BIS社の一流のコンサルタントとの同行は、私のコンサルティングスタイルに大きな影響を与えました。説明材料の作成とプレゼンテーションの準備方法に始まり、実際の説明方法、説明の態度、Q&Aの受け答え方、クロージング方法など、驚くほどかっこいいものに見えました。私は、このすばらしいコンサルタントを模倣することから始めたのです。
私のカルチャーショック
今でも一番印象に残っているのは、イーストボーンやバーミンガム、エジンバラでの四泊五日の教育コースです。とにかく、いろいろな国の人々の考え方を知り、相当なカルチャーショックを受けたことを鮮明に覚えています。ここに、ポイントを洗い出しておきます。
日本では、そうはいきません。会社で成功することは、コンサルタントとして成功することではなくて、会社の中でより高い地位に就くことです。つまり、どこの会社に勤めているか、部長とか課長とか、どのようなタイトルでどのような権限を持っているかが日本人にとっては大切で、職業や専門知識などは、比較的軽視されています。また、どちらが先輩で、どちらが後輩なのか、どの学校出身であるか、どちらが年上であるかなど、考え出したらきりがありません。
この事実は、文化の違い、価値観の違いからくるもので、どちらが正しいというものではありませんが、しばしば、日本人は、自分達の世界こそが全てであるような錯覚を起こします。これは、日本で本当の意味でのプロフェショナルが育たない理由の一つになっています。今、日本では、このような社会構造が、がらがらと音を立ててくずれ落ちています。日本でたまたま成り立っていたのは、戦後の30数年の期間にすぎません。今後、日本人の職業観が、欧米のようになるとは言えませんが、少なくとも、今よりも職業を選択するという意識が、強くなることは間違いありません。
つまり、会社が個人のことを決めてくれるのではなく、個人が自分の意志で、やりたいことや人生を選択することなのです。皆さんは、どちらが正しい生き方だと思いますか?欧米人で、はっきりしているのは、職業に対する誇りと責任感を持って仕事をしているということです。
英国滞在中の六カ月間に、私は、6回の方法論のトレーニングコースに参加しました。当時のBIS社が行っているトレーニングコースは、少なくともヨーロッパでは、方法論の分野では最高水準にあり、優れたコースウェア、経験の深い講師陣を揃えており、英国内で開催されるコースには、北欧、イタリー、スペイン、また遠くはアフリカやアラブの国からの参加者が常にあって、実に国際色豊かなコースでした。
例えば、データ分析コースなどは、当時、年間70回もの開催がされていて、1980年代中盤の、ヨーロッパでのデータモデリングに関する関心の高さを窺い知ることができます。今でも、ヨーロッパからのコンサルタントを招く場合、同じコースの出席経験者に、たびたび出会います。
以前私が働いていたコンサルティング会社の同僚の中にも、BIS社出身のコンサルタントやBIS社のコースでCASE技術やモデリング技法を学んだ人達がいました。私は、これまで、英国やアメリカのさまざまな会社から方法論やCASEについて学んできましたが、今つくづく思うのは、世界は本当に狭いということです。また、この世界を動かしているのは、本当に少数の、高い目標と希望を持った人達であるということです。
この世界は、表面的には移り変わりが非常に早く思われます。多くの会社が、統合されたり、買収したり、設立されたり、消滅したりしています。しかし、よく見ますと、影で動かしているのは、実際少数の人間ですから、それらの人々の考えによって、情報の世界は動いてゆきます。とりわけシステム化方法論の世界は、ゆっくり確実に方向性を持って変化してゆきます。
現在、BIS社は存在しません(80年代の後半に米NYNEX社に買収され、その後はACT社のものになっています)。最後に、現在当社が提供しているデータモデリング、プロセスモデリングなどの教育コースは、多くのBISでの経験と私の日本での数十回以上の実践経験に基づいて、アレンジ、改善してきたものです。ぜひ今一度、トレーニングのあり方を考え直してみてはいかがでしょうか。
1999年9月8日