~ アリストテレスのいう“善”とは何か? ~
それでは、善とは何であろうか?アリストテレスは、善には3つの種類があるといっている。一つ目は道徳的善。二つ目は有用的善。三つ目は快楽的善である。
・道徳的善 ⇒「困っている人を助ける」など道徳的によいもの
・有用的善 ⇒「お金」「地位」「専門性」など役に立つもの
・快楽的善 ⇒「楽しい」など快楽を与えてくれるもの
道徳的善とは、「困っている人を助ける」こと。例えば、電車に乗った際にお年寄りや妊娠している人に席を譲ったり、ボランティアや寄付をするなどの行いがこれにあたる。実際のところ、助けることには勇気が伴う。人間いつもいつも実行できるわけではなく、迷ったあげくに何もしなかったり、見て見ぬふりをすることもしばしば起こる。この理由は、人の目が気になったり、行為そのものに利害の判断が働くためである。しかしアリストテレスは、すべてを完璧にこなせなくても良いと考えている。
いわゆる狭い範囲の倫理や道徳が、「なになにすべき」という義務に立脚しているのに対して、ここでは、80点で良いとしている。自分の心と相談し、できることから始めることにしよう。一度、電車で席を譲るということができれば、経験になり勇気が身につくのだ。人間は、経験に学び徐々に行動できるようになる。
次の有用的善は、我々の最も身近で厄介なものである。現代社会においては、人々を動かす行動の判断が、有用的善が中心になっていることが多く、自分の行動の動機が、金や地位を得ることを第一の目標にしている場合がある。また時には、道徳善に反して、有用的(金のため、地位のためなど)何かのために軸を置き、行動する人がいるのも事実である。
アリストテレスは、有用的善を他の善に反していなければ、あって良しとしている。有用的善だけを追うのは好ましくないが、人間の行動には、一定の幅とバランスで必要だと考えているのだ。
アリストテレスは、快楽的善についても否定はしていない。例えば、仲間とのカラオケ、飲み会、旅行などの目標を目指し楽しむ「快楽的善」を肯定している。これらを含めたあらゆる快楽については、必要な善であると考えているのだ。私は、ゴルフをやるのであるが、ゴルフは快楽的善と有用的善にまたがって存在し実に心地よい。
要は、アリストテレスは、3つの善のバランスが大切であると考えたのである。私も、まったくその通りと考える。各自が、3つの善を適切に配分して行動することこそが、幸福への道筋となる。
これなら自分にでも守れそうで、理にかなった考えだと思う。ギリシャ時代の都市国家には戦争もあり奴隷もいたであろうが、そのような時代に、このような倫理が存在したなんて驚きである。
まとめると、
・価値あるもの、肯定的に評価できるものを善と呼ぶ
・究極的な善を幸福と考える
・3つの善をバランスよく組み合わせて幸福を実現していく
実際、人々が考える幸福は、人によって異なる。なぜだろうか?
人間には、理性というものがある。理性には、「分別」「物事を認識し判断できる力」がある。人間は、この理性を使って本能を生かすなど良い仕方で開花させることができる。つまり人間は、理性により芸術家、建築家、学者、政治家、経営者などの機能(職業、天分と言っても良いだろう)が決まり、異なる機能、個性、考え方、行動様式、好みなどが決まってくる。アリストテレスは、人間は人間固有の理性を使って選択を積み重ねることが重要であると説いた。
人間は、日々の行動を行い生活している。生活は、主に3つに分類できる。「快楽的生活」、「社会的生活」、「観想的生活(一心に思いをめぐらす生活)」の3つである。つまり、人間は、善につながる生活を積み重ねることによって徳を積んでいくのである。
徳を積むためには、思考の徳は教示で身につけ、性格の徳は習慣で身につけるものである。徳を積むとは、言い換えれば、人の力を生活を通して向上させてゆくことである。では、人の力とは何か。それぞれを判断力、勇気、節制、正義と定義することが可能である。これらの力を生活を伴い上手に引き出してゆくことが大切である。
幸福は、幸運とは異なる。幸福は、徳という力を身につけて、長い時間をかけて獲得していくことである。また、徳に反することを悪徳と呼び、悪徳により幸福を得ることはないとされている。
徳を積む生活に欠かせないのが、人と人との関係である。言い換えれば、善は、人間関係の中で実践されるものであり、友人と友愛は、人にとって必要なものである。
アリストテレスは、人の関係を“友愛”と呼び、幸福のために最も大切なものと考えた。
次は、“友愛”について語ろう。
(その3へ続く)