筋を通すということばの一般的な使い道は、道理にかなうようにする。首尾一貫させる。しかるべき手続きをふむと言う意味で使われていることが多いが、私は、もう少し情緒的なものがさらにそれに加わっていると考えている。
そもそも、「筋を通す」の語源はどうなっているのだろうか?
筋は語源的には身体の「筋肉」あるいは筋肉の中を通る細かい線を指している。そこから「細く途切れずにつながっているもの」、そして「物事の道理」と意味が発展していく。「筋を通す」はこの意味の「筋」を使ったこれまた “メタファ” である。そもそも人の体の筋は、もともとあるものである。そして、あるものからあるべきものへと、その意味は発展していった。英語にすると以下のように訳されているが、無味乾燥になってしまう。
to be consistent in action
to proceed in a logical manner; to go through the proper channels
筋を通す人とはどのような人であろうか。私は、倫理観や正義感を持ち、プリンシプル(生きる原則)をもっていることだと考える。私の経験では、英国人はすべての言動にプリンシプルがはっきりしていると感じる。日本でも江戸時代の武士は、総ての言動は、プリンシプルによらなければならないという教育を徹底的にたたき込まれていた。
英訳についても生きる原則(principle)ということばをつけ加えれば、“筋を通す”の本来の意味に近い表現になる。ここでいう原則とは、ひとつではない。個性的で良いのだ。
自分の本質を見極めることが筋であるとすれば、それを貫いて行く事が筋を通す事だと言えるのではないだろうか。やれると信じ、最初から枠を決めず、達成するまでやり続ける。一貫性が無く、行き当たりばったりで人間関係がこじれ、自分の都合の良い生き方をすれば、友人、関係者すべてを失う羽目になることは明らかだ。現実には、一貫性と正義を完璧に持っている人などごく少数であり、多くの人は、迷いながら日々の決断をしている。それも人間の正体である。しかし、さはさりながら、迷ったときにどこに(筋を通す)戻ればよいのかを分かっていれば、そう道理から外れないだろう。
プリンシプルを持ち行動することは、日本語でいう「筋を通す」に近い。白州次郎が、「日本一かっこいい男」と言われる所以は、生涯筋を通し続けたからであろう。「葬式無用 戒名不用」というシンプルな遺言を残し、悔いなく人生を送り、風のように消えていった。すばらしい生き方ではないか。
私は、政治も会社も一個人もすべて、筋を通すという観点から点検したほうが良いと思う。