世の中の仕組みが、変化しつつある。
ダイバシティ、グローバル、コミュニケーションなどのキーワードが飛び交う。日本政府は競争力を高めるために、女性をターゲットにした雇用の改善をはかろうとしている。
しかし、私は、例えば女性の雇用をどのように進めるかという方法論を検討する前に、そもそも人が『働く』ということはどのようなことなのかを真剣に捉え直す必要があるのではないかと思っている。女性活用の各論の前に、「人生の中で『働く』ということが、自分にとってどのような意味を持つのか」を、もう一度原点に返って見直すべきではないだろうか。
それにしても、 ワークライフバランス、ダイバシティなどの女性活用につながるような言葉だけが先行しているとしか言いようがないのが現状だ。
しかし、上面な言葉に踊るのではなく、本当に大切なことは、仕事や家族や時間を自分が生きていくその中で、改めて見出すことではないだろうか。何かを始める前に深く考え抜き、腹落ちした後で、勇気を持って実行することが大切なのだ。生活を犠牲にして働いているとか、自分が不幸であるとか、不満ばかりの会社は面白くない、などと考えているうちは、何も前へ進まない。
かくいう私も、これまで長い間、働くとは何か、生きがいとは何か、人が働くということの本当の意味は何だろうかと悩んできた。その中で辿り着いたのは、言葉にすると簡単なことだが、何か目標を持って生きることが大切だということだ。
世間では、人の幸せを考えるときに、仕事と家庭、仕事と遊びなど、仕事とそれ以外の要素を分けて考える風潮があるが、『働く』ことと、家庭や遊びなどの自分の時間(こういう言い方も本来、適切ではないのだが)を大切にすること、この二つを区別しようとしても、目標を高く掲げて生きている中では、区別できるものではないと私は思う。
何か大きな仕事を成し遂げようとするためには、全身全霊、目標を掲げて真剣に打ち込むことが必要であって、その際には、時間も遊びも越えて取り組むことが要求される(誰かが要求するのではなく、目標がそれを要求する)。所謂、自分の時間がない状況になってしまうのだが、やらされ感だけの作業とは明らかに異なる。やらされ感ばかりで自分の時間がなくなり、嫌々仕方なくやっているだけの作業から得られる感動などあり得ないが、全身全霊で真剣に打ち込み、自ら掲げた目標に沿った仕事がうまく運べば、それこそ大きな達成感を味わうことができる。苦しくも楽しめる場合が多いのだ。
そのような経験を実際にしてきたからこそ、仕事のルールや仕組みづくりが云々と議論する前に、『働くということ』とはいったい何なのか、その意味は何なのか、深く考え抜いて腹落ちした自分なりの哲学を持つことが必要だろうと思うようになったのだ。
目標を掲げ、自ら選択した人生は、人とは違う苦労があるかもしれない。しかし、目標や希望を高く掲げて進むあなたには、仕事の機会がある。一緒に仕事をする素晴らしい仲間がいる。個々の事情に気を遣いながらも、お互いに助け合って仕事を進めていく、それこそが『働く』ということである。
『働く』ということは、機会であり、希望であり、自らを成長させてくれる何物にも代えがたいものであると、私は思っている。私にとって『働く』とは、”一生懸命生きる”なかに、遊びも育児も介護なども何もかもと一緒に、一体になっているようだ。それが私の哲学であると思う。
自分にとって『働く』ということを、ハッキリさせなければならない。
これまで述べてきたことを思いながら、インターネット上で名言集を検索したところ、あの稲盛和夫さんも仕事とプライベートということで考えていたようだ。私とほとんど同じ感覚で仕事や人生を捉えているので紹介したいと思う。
以下、名言集より。
「私は若いころ、プライベートな人生と仕事を分けて考えるべきかどうかということで、大変悩んだ時期がありました。働くとは生きるための糧を得る手段であり、自分の人生はまた別のところにある。こう考える人が多いのでしょうが、本当にそれでいいのかと。そんなときにこの本(内村鑑三『代表的日本人』)に出会ったのです。以来、働くとは自分を磨くことであり、自分の人生と仕事を別々にとらえるのはおかしいと考えるようになりました。(稲盛和夫の名言集 『働くとは自分を磨くことであり、人生と仕事を別々に捉えるのはおかしい』より)」