最近いろいろな哲学書を乱読している。多分、私の中に様々な迷いが、あるのだろう。私の場合、やりたい仕事や目標は、はっきりしているが、55歳になったことで、人生を逆算で考えるようになった。生涯で使える時間の3分の2は、使ってしまったようだ。実際には、正確にどれだけの時間が、残っているのかは、分からないが、有限であることは確かである。40代までは、気持ちに勢いがあり、可能性は、無限であるかのように感じていた。(実際は、そんなはずはないのであるが)
私は、有限の時間で納得できる人生を送りたいと私は考えはじめている。納得できる人生の振り返りを行い、これからどうするかを真剣に考えたい。人生を振り返るには、それなりの経験量になった。人間とは何か?人生とは何か?正しさとは何か?仕事とは何か?家族とは何か?・・・をあらためて自分自身に問い直そうとしている。
有限の時間の中で人生の目標に優先順位を付け、本当に何をすべきかを深く考えること。そのような場面では、哲学は、大変役に立つ。過去に何も感じなかったことが、今、感じ方、理解の仕方が、違ってくる。
カントは、人間とは何かという基本的命題に対して深く考察し、人だけが動物とは違い持っている理性について、現象に対する思考や感性の観点から体系付けている。誰もが持っている認識能力を整理し、どのように経験が成立するのかを明らかにした。 また、ニーチェは、人には、本質的に強く大きくなりたいという「力への意志」が備わっているといっている。さらにサルトルは、人は、自由の刑に処せられていると言った。つまり、人は、どのような状況下であっても自由の刑ゆえに、自らが、判断を迫られている。また、おかれた状況が、いかなる形であっても積極的にその状況を受け入れ関わっていくべきであるといっている。
別の観点であるが、人がコミュニケーションに使っていることばについても深く考えなければならない。ソシュールは、言語について研究し、ことば意味は、差異で決定すると理解し、社会が、ことばの意味を与えていると言っている。言い換えれば、言語の個々の単語を統合した体系は、様々な文化に依存していると述べているのである。人が、考えを披露したり、「哲学する」ことも言語無しでは成立しない。普通に使っている言語についても哲学の重要な一部を形成しているのだ。
結局、哲学は、どこから入ろうと、一旦哲学の勉強を始めると次々と課題が、立ちはだかり、その課題を納得することにより、また、次の課題が現われるようになっているのだ。また、歴史上の様々な哲学者が、何を知ろうとしていたのかを知りたくなってくる。
さて、現実の問題に戻ろう。誰もが、仕事を進めていくうえでぶち当たるのが、対処しなければならない出来事である。目の前で起こった出来事に関する事実はひとつである。しかし、それを認識しどう解釈し、どのように対処するかは、自由である。(参考:サルトルのことば) 知識労働者として働いている私たちは、すべての出来事に自分自身で意思決定しなければならないことに気付いていない。問題は、どのように意思決定するかである。目の前の出来事をポジティブに捕らえ、積極的に対処するか、逃げるかのどちらかになるだろう。 身に降りかかる出来事は、必ずしも楽しいものばかりではない。でも、新たな考えとしてすべての出来事を前向きに捕らえ、チャンスと見るのはどうだろうか?
ある程度リスクを取り、全力で立ち向かう。100%関与して努力するが、期待する成果が得られないかもしれない。反省し、次の成功を目指す。そのような生き方は、どうだろうか?やらなければならないことをいろいろな理由(言い訳)をつけて、避ける努力をする人も多い。私は、言い訳ことばとして「忙しい・難しい」を定義している。このことばは、最も出来事に消極的なときに多用される。自分が関わっている人との会話に耳を澄ますと良い。言い訳は、何も生まないことは、誰でも知っている。
進むか逃げるかは、自分次第だということを哲学は、教えてくれる。
2年経ったら同じ本を読み返そう。成長している人は、違った読み方ができる筈だ。
参考図書:哲学は、図で考えると面白い 白鳥春彦(監修)青春出版社
(この程度軽めの本から読むのが私のお薦め)