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三河 淳一さん(2) セントラル・コンピュータ・サービス株式会社


三河淳一さん
三河 淳一さん
セントラル・コンピュータ・サービス株式会社
1991年、上智大学大学院理工学研究科物理学専攻修了。同年、日本鉱業株式会社(現新日鉱ホールディングス株式会社)に入社。 半導体製造装置や石油プラントの制御系システム開発を経て、セントラル・コンピュータ・サービス株式会社にてビジネス系システム開発に従事。 システムの受託開発プロジェクトに参画する傍ら、社内開発プロセス標準の策定に取り組んだ。
ここ3年間は常に数本のプロジェクトに上級管理者として参画しているが、「プロジェクト管理の改善には終点はない」ことを日々実感している。最近取り組んでいるテーマは、コミュニケーション、開発プロセス、見積もり技法、リスク管理など。

情報システム部門への配属

三河淳一さん

三河
入社後は、だんだん能登原さんもご存知の話になっていきます。

能登原
では、そのへんは読者の皆さんのために、少し突っ込んで聞いていきましょう。三河さんは入社後、情報システム部に配属になったわけだけれど、そのいきさつからお願いします。

三河
情報システム部門は、私が入社するきっかけになった研究室OBのHさんが所属していた部署だったんです。入社の際に他の部門もいろいろ見せていただいたんですが、まずHさんがいらしたということが大きいです。
それから、私はコンピュータはそんなに得意ではないんですけども、能登原さんがずっとやっていらした制御系、制御システムというのは、やはりものを動かすというところがありますよね。この「原理を利用してコントロールする」というところを見て、これは面白そうだなと思って。

能登原
最初に研究所に配属、という話もあったでしょう。

三河
ええ、研究所を希望するかどうか聞かれました。もしあの時、情報システムじゃなくて研究所を希望したら、たぶんO&E研究担当だったと思いますね。当時、光デバイスとか多角化を進めていましたから。

能登原
じゃ、三河さんはそこで研究所じゃなくて情報システムを選んだんですね。

三河
そうです。

能登原
でも光デバイス研究にも惹かれませんでした?

三河
もともと光を専門に研究していましたから、やはり惹かれましたよ。でも、もうちょっとHさんについていってみて、いろいろ学んでみたいなって思ったんです。Hさんは先輩として、私が入社したあとも本当に親身に面倒をみてくれました。

当時の情報システム部は数学科とか経営工学とか、大学時代にコンピュータに関係することをやっていた人が多かったんです。特に数学科でいくつかの言語を学生時代から使いこなしていて、コンピュータの基本的なところを知っている人たちには圧倒されました。

新入社員の全社教育のあとに部門教育で、システムづくりなど「コンピュータのいろは」を勉強するんですけども、私はほとんどなにもやっていないに等しいので、そのときにものすごく焦りました。なにしろ最初に印象に残ったのは、「コンピュータってゼロと1しか扱えないんだ!」ということですから。二進法は知っていたんですけど、そもそもコンピュータの一番プリミティブなところが二進法の計算で成り立っているということは、その時、「え、そうだったのか」と初めて実感したんですよ。で、これは知らないことだらけだなと思って、Hさんに「どうすれば彼らに追いつけるんですか」と相談したんです。

能登原
三河さんの同期って、数学科ばかりだったんだ(笑)。

三河
ええ、学生のころからデータベースとかシミュレータとばりばりやっていた連中がいたので焦りましたね。Hさんに、「わからないなりにも目を通して、言葉が頭に残ればそれを起点にいろいろとたまっていくはずだから」というアドバイスをいただき、コンピュータの雑誌や書籍を教えてもらって、雑誌はHさんが読んだあとのをいただいて、とにかく読みました。

Hさんのもう一つのアドバイスは「そんなに焦らなくてもいい」ということでした。「システム屋としてはコンピュータ以外に必要な力もたくさんあるから」というような励ましをいただき、一時期は、毎週のように夜、食事に連れて行ってもらって相談に乗ってもらっていました。釣った魚にもちゃんと餌を与えてくれたわけです。

能登原
なるほど。よい先輩に恵まれましたね。

実験的なプロジェクトに取り組む日々

三河淳一さん

三河
能登原さんと初めてお会いしたのは、配属前に本社に行ったときだと思うんです。能登原さんは松葉杖をついていました。

能登原
しまった!あれはスキーで複雑骨折して、まだ松葉杖のときだったんですよ。そこで会って、あいさつしたくらいだったと思うのだけれど。そのあとは、三河さんが情報システムの数理制御グループに配属されてからになりますね。

三河
あのグループでやっていた仕事は、研究室の延長のようなものでしたね。一般企業として容易に構築出来るような技術ではないものを何とか自力でやろうというプロジェクトが多かったです。

能登原
そう、果敢に実験して、それをなんとか実用化しようというプロジェクトでしたね。三河さんが配属されて最初の仕事はやはりO&E関係だったかな。

三河
光カップラーの仕事でした。今の光通信に必要となる基本デバイスですね。まだその頃は通信網が銅線というか、電流、電気信号だったのが、徐々に光通信に置き換わるタイミングで、会社も光デバイスの事業を立ち上げたんでしたよね。

能登原
あれは当時買収したアメリカの会社がノウハウを持っていたという経緯があって、日本でもやろうということになった。今はもう日本全国光ファイバーになっているけど、その当時、末端の家庭まで光ケーブルを引こうという計画がNTTにあったんです。その時に爆発的にニーズがあるだろうと。

三河
そこで私は大学のときに専門でやっていた分野に関連の深い光分波/光合波器の製造システムをやることになったんです。おかげで研究所の人たちとデバイスの特性の話をするときには、情報システムのどの先輩よりも強かったです。

能登原
その点ではこちらは全くダメでしたね(笑)。プロジェクトはそれをつくる装置を自動制御するという話でしたよね。

三河
ええ、そのデバイスは複数の光ファイバーを束ねて熱を加え、ねじりながら引くという工程でつくりあげるんですけども、その時に、ファイバーの一方から光を出して反対側から出てくる光の波長を測定し、その製造工程では今どういう状態になっているかというのを見ながら熱の入れ方や引き方を加減するんです。それを動かすモーターをコンピュータでコントロールする。その時の仕事は大学でやっていた研究の延長に近かったですね。違うのは論文を書かなくてすんだということくらいで(笑)。

能登原
人数的にもこじんまりしていたし、三河さんが最初にあの仕事から入ったのは非常によかったと思っています。

三河
そうですね。開発はパートナーさんを含めて6人くらい。情報システム側というのは能登原さんと私でした。
その開発では一通りラインをコントロールするためのシステム一式は作ったんですけども、それで会社に事業貢献をしたかというと、そこまではいかなかった。かなりいい線までいったけれど、みんなが100%満足できる結果ではなかったですね。ただ、今から思うと自分の最初の仕事としては最適だったと思います。
そのあとも能登原さんの下で、石油精製のテストプラントのコントローラー開発をやりました。プロセスコントロールのためのプロコンが老朽化して、いろいろ新しい実験をするにもシステムの能力が足りないということで新しく作ったんです。当時流行っていた分散計装ですよね。

能登原
製油所にあるようなちゃんとしたプラントではなく、研究所での実験プラント用の制御システムの開発ですね。制御の内容は一緒なんだけど、信頼性とか大きさとかが違う。その制御システムを自社で、しかもUNIXの技術を使ってつくろうというプロジェクトでした。
これをやればUNIXの技術もつくし、リアルタイムのOSや制御の技術も全部つくということで、当時の情報システム部門にとってみれば、難しいけれど挑戦する価値のあるプロジェクトだった。

三河
あれは長いプロジェクトで、立ち上げは私ひとりだったんですけど、あとで他の人もいろいろ入ってきました。最初にプロトタイプをパートナーさんとつくるんですが、それを使って研究所の研究者がフルにいろいろな実験をするんで、そこではもう本番システムなんですね。私は本番化に向けたいろいろなテストのためのプロトタイプづくりから入って、それが1年くらい。そのあと本番開発が1、2年くらいだったと思います。

能登原
三河さんはコンピュータの制御や技術をこれでほとんど習得出来たんじゃないですか。

三河
浅かったとは思うんですけど、一通りリアルタイムシステムの世界をここで勉強させてもらいました。リアルタイムOSの中で、その頃UNIXで実装されていたinetdデーモンというサービス提供の為のサービスを提供するプログラムがあるんですけど、その外部仕様を勉強して、inetdデーモンと同じような動きをする通信デーモンをつくって、それをリアルタイム制御OSにオリジナル実装したというのがすごく記憶にあります。その頃は各リアクタ(反応装置)一個一個に1台の制御用コンピュータがついていて、また、その制御用のコンピュータにはリアクタに対して計測や圧力コントロールするための入出力ボードが10枚くらいついていたと思います。

能登原
VMEのボードだったね。ボードの上にコンピュータが一つずつついて。

三河
そして上位は上位で、また複数がワークスステーションとしてある。研究者が複数いるので、そのUNIXワークステーションの上で、どのリアクタをどういう実験パラメータで動かすとか、実験工程をワークステーションでつくって、それが研究者の数分あるわけです。研究者が実験工程を組み立てたり、実験結果を解析したりするためのUNIXワークステーションが複数台あって、それらがコントロールするコントロール用のコンピュータはその反応装置分だけあるわけです。その反応装置をコントロールするコンピュータにもIO装置がまた何枚も刺さっていて。それでいろいろな制御のアルゴリズムだとか、リアルタイムシステムの設計だとか、それから通信だとかデバイスドライバとか、スクラッチな実装を一通りやりましたよね。

能登原
そうだった…その間にも他にもいろいろやっていましたよね。画像処理の研究開発とか。

三河
それで米国の会社向けに触媒のシステムも作りました。原油からガソリンや軽油などの石油製品をつくる時に、反応を制御するために触媒を入れますが、それがネズミの糞くらいの大きさのぺレット形状の触媒だったと記憶しています。触媒は反応を起こすために形状が均一な必要があるので、触媒をつくる会社は品質検査を一つとして形状の検査をします。形状検査では抜き取り処理をして、目視でロット中どれくらいの割合で形状不良が出ているかを見るんですが、それをもう少し効率化したいという話だったんです。
我々が挑戦したのは、出来上がった触媒の山からスコップですくって検査板の上に撒いたところをカメラで撮って、一個一個の粒の形状を画像処理しながら形状が規格の範囲に入っているかどうか見るというものでした。一番技術的に難しいのは、ばらまかれたピレットが規格の範囲内に入っているかどうか、入っている数が今ばらまかれた何個中何個あるかというのを瞬時に測定するということでした。

能登原
パック入りご飯を製造する工場のコントロールもやったよね。

三河
今のパックご飯の先駆けですよね。その生産工場の計測とコントロールを行うシステムの開発をやりました。細長いプールみたいなところが槽で分かれていて、そこに笊のようなバケツに入れられたお米をつけて加工するんですが、その槽の液体の温度や浸ける時間をコントロールするんです。その時はまだ実験だったんですが、後に事業化しました。

能登原
あの頃は楽しかったですね。

三河
ええ、楽しかったですね。

徹夜続きよりもつらかったこと

三河
ただ、大変なことはありましたよ。テストプラントのシステム本番を迎える直前に、なかなかうまく部品が有効利用出来なくて、一緒になってやってくれということで、サポートに入ったんです。昼間は研究者の人たちがテスト運用でシステムを使っていたんで、何か改造したりチューニングするとしたら夜しかなかったんですよ。私、1か月間夜勤していました。能登原さん、覚えていません?

能登原
それはまったく知らなかった(笑)。面白そうだから具体的に話してください。

三河
たしか私が野方の独身寮にいたときで、通常の勤務は新横浜の駅前だっだんですが、サポートに行く場所は、埼玉の戸田でした。
チューニングする時間は夜しかないので、夕方くらいから戸田の研究所に入って、前日の状況をいろいろ聞いて、夜からプログラムをして、研究者の運用が終わったあと、テストを朝までやるんです。朝になって独身寮に帰って寝ます。
最初は昼間も自分の本務を持っていましたから「なるべく早く出て仕事をやらなきゃいけないな」というわけで、戸田から始発で寮に帰って6時半とか7時から4時間くらい寝て、朝飯か昼飯かわからない飯を食って、午後から会社(新横浜)に行って、というのを繰り返していたら、だんだん疲労してきました。それで「すみません、夕方出勤でいいですか」って(笑)ことにしたんです。今考えれば、若いから何とか体が持ったんでしょうね。

能登原
確かに、あのプロジェクトはいろいろ問題が出てきて大変だった。結局、担当者はみんな泊まり込み状態になったよね。

三河
よく覚えているのはそれが冬だったことです。数理制御は年に1回か2回、みんなでスキーに行ったじゃないですか。それこそ土曜日の日が変わるくらいから戸田でチューニングをやって、朝、寝ずに自分の車でみんなが行っている白馬かどこかにスキーを積んで行って、一緒に午後から滑って。

能登原
あった、あった。そういうことが(笑)。

三河
夜は宴会するんですけど、さすがに寝ていないしスキーもやってふらふらで、宴会で飲みながら寝ていて、いつの間にか誰かが布団に入れてくれました。日曜日もみんなは滑るんですけども、私は月曜日の朝からチューニングに入るんで、その足でひとり帰りました。

能登原
そういう状況でしたね。それでもよくスキーに来たね(笑)。

三河
だって、やっぱり行きたいですよ(笑)。数理制御は若いメンバも多くて仲が良かったんです。

能登原
あのグループはほんとうに楽しかったね。逆に三河さんがつらかったのは、どういう部分でした?

三河
ほとんどのプロジェクトは徹夜をしましたけれど、当時は徹夜がつらかったと言うよりも、本当に動くかどうかという不安の部分がつらかったんじゃないかと思います。それから、バグが出て動かないのに、どこがまずくて動かないかがわからない時がつらかったですね。
現在、会社の中でバグを生まない高品質のものを効率的に開発できるよう、プロセスの改善の検討とか、メソドロジーの見直しをやっているんです。今取り組んでいるような開発プロセスとか開発のやり方が当時できていれば、あんなに苦しまなかったのにな、と思います。もう、全然工学的じゃなかったですものね。

能登原
確かにそうでしたね。あの頃はあの頃で、できるだけのことをやってはいたんだけれど。

三河
そう、当時だってより工学的にあるべき姿を追い求めていて、もちろん努力はしていたんです。ただ、今から見ると全然レベルが低かった。また10年後、今を振り返って見ると、あの頃は全然ダメだったなって思うんでしょうね。

能登原
その通りです。三河さんもそうだと思うけど、「自分たちは出来る」という自信があってやったのに失敗したからこそ、「もうちょっといいやり方がないか」と方法論や技法を磨いて現実に挑戦しているんですよ。それでちょっとずつ良くなってきている。失敗してそのままにしておくと、たぶんそのまま成長せずに終わる。

三河
そう考えると、失敗はとても重要ですね。

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能登原 伸二
■株式会社アイ・ティ・イノベーション 取締役 兼 専務執行役員 ■株式会社ジャパンエナジーの情報システム部門において、長年、情報システムの企画、開発、運用までの幅広い業務に携わり、ITによる業務改革、収益向上を支援してきた。また、その実務を経験する中で、システム開発における開発方法面の必要性を認識し、C/S向け開発方法論の制定、導入を推進。常に顧客と共に考え、行動し、成果を上げることをモットーとしている。

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