能登原
今回の対談は、ちょっと変則的です。
三河さんは僕にとって、日本鉱業(現新日鉱グループ)でのかつての部下に当たります。だから、キャリアについてある程度知っている部分もあるんですが、今回は「あの時は実はこうだった」ということも含めて、どのような経験を経て今の三河さんがいるのかということを明らかにしていきたいと思います。おそらく、同じ場を共有していても、立場が違えば見方や感じ方も違うし、今だから整理して話せることもあるかと思うんですよ。
三河
そうですね。よろしくお願いします。
能登原
プロフィールを見ると、三河さんは上智大の理工学部だったんですね。大学と学部はどういう理由で選択したんですか。
三河
私は出身が九州の大分で、まあ、田舎者なんですけども(笑)。叔母から「東京の学校はいろいろな出会いやびっくりするような出来事があって、とにかく魅力に満ちている」というような話を高校時代に聞いて、まずは東京の大学に行きたいと思ったんです。
上智といえば英語ですし、その頃は英語も一生懸命に勉強をしていて、コミュニケーションの手段として英語はしっかり身につけたいというのがありました。それから、実は上智ってすごく小さい大学なんです。正門を入るともう裏門が見えるんですよ。私が入った物理学科も1クラスしかない。マンモス校にはない良さもあるんじゃないかなという期待もあったんです。
学部の選択は、高校2年生から文系と理系とに分かれるので理系にしたからです。何で理系かというと、実は国語が弱くて、古典とか全然ダメで…どちらかというと消去法ですね。
能登原
でも理系の中で、他の専門分野ではなく物理学科を選んだということは、物理が好きだったんじゃないんですか?
三河
そうですね。今から考えると、やはりものが動く原理に興味があったと思います。大学に入って先生と「何で物理を選択したのか」という話をした記憶があるんですけど、小さい頃、自由落下で橋の上からものを落とした時に、何秒後にどの地点にあるという予測ができる話を聞いた時に、「これはすごいな」と思った記憶があります。その頃から、ものが動くこととか、動くための原理だとかに興味があったようですね。
能登原
大学時代にはもうパソコンはありましたよね。
三河
ありました。ただ、パソコンと接するようになったのは、物理でも実験系を専攻して、測定や解析にコンピュータを使うようになってからです。NECの98シリーズとか、研究室によってはIBMのマシンもありましたけど、もちろんWINDOWSではなくてDOSです。さらに上位の計算をする時にはNECのホストマシンが入っていて…。
能登原
ACOS(エイコス)かな?
三河
そうです。ACOSが入っていまして、ACOSのFortranでさらに先に進めたりということもやっていました。確か一般教養かもしくは専門の一部でコンピュータ言語の講座もとったんですけど、途中で挫折しちゃいましたね。
能登原
その頃はあくまでコンピュータを道具として使う側だったということですね。
能登原
僕は三河さんの大学時代の話はだいぶ聞いているんだけれど、勉強のことよりもサークル活動の話が多かった(笑)。ここでまた、探検部の話を聞かせてもらいたいんですが。
そもそも、なぜ探検部に入ったんですか?
三河
最初から入ったわけではなくて、3年生くらいからで、途中から入ったんです。大学院を卒業するまでずっと所属していましたが、何で入ったかというのが実は思い出せないんですよね(笑)。
能登原
じゃあ、入学した頃は別のサークル活動をしていた?
三河
ええ、その頃は体育会バレー部でした。僕は中学、高校とずっと、もうバリバリにバレーボールをやっていたんです。
地方出身の場合、入学前に学生部に行って、貼り出されている中から下宿先を探すんです。大学の近くがいいなと思って、赤坂見附で間借りしました。一軒家に老夫婦が住んでいて、お子さんの3人兄弟が独り立ちされていて、その部屋が2階に3部屋空いていたんです。なぜか他の2部屋も、大学は違うけれど物理学科の先輩でしたね。初めての東京暮らしで不安でいっぱいですから、慣れるために早めに上京して入学前からこっちで生活をしていました。見学を兼ねて大学の体育館に行くとバレーの練習をしていたので、見ていたら、「どうしたの」と声をかけられて、「今度、ここに入るんですけども、早めに住むところを決めたので大学を見学しているんです」と言ったら、「バレーをやってたの?」と聞かれて、「やってました」、「じゃあ、一緒に練習しなよ」と(笑)。だから入学式より前にバレー部に入っていたんです。
でもバレー部は2年くらいしか続かなかったですね。他にも誘惑が多くて。
能登原
遊びの誘惑かな(笑)。でも、バレーボールから探検部というのはすごい飛躍ですね。探検部ってどういう活動をするところなんですか?
三河
まず、いわゆるバックパッカーとして旅に出ます。行き先は東南アジアが多かったですね。私は実は行っていないんですけど、ほとんどの人間が、鑑真号という船で中国まで行くんですよ。探検部の登竜門というか、それが探検部で最初に海外に行く時のデフォルトなんですね。
能登原
鑑真号がデフォルトなんですか(笑)
三河
先輩後輩何人かで一緒の船で渡って上海に着く。そこから別々になって、近場で終わる人もいればネパールの方まで行く人もいます。部室の壁にはそういう写真がいっぱい貼ってあって、部員が海外に行ったときのスライド上映会をよくやっていましたね。私はいたって平和な、ヨーロッパとかタイとかに旅行しました。
能登原
探検ではなく旅行ですか?
三河
バックパッキングなので、たいしたお金を持たずに安宿を転々としてという感じですね。ヨーロッパはユースホステルやツーリストインフォメーションが充実していて、旅がしやすかったです。
能登原
三河さんはそれがメインではなくて、もっと違うタイプの探検をしていたんでしょ。確か穴の中に潜る…
三河
ケービングです。鍾乳洞の中に潜るんです。
バックパッカーとしての海外旅行は、夏休みとか春休みの余興で、探検部の本来の活動は、クライミング、ラフティング、ケービングの3つです。私は途中参加なのでそんなに本格的にやっていないんですが…。入部したころ始めたのがケービングです。ケービングは鍾乳洞の中に入って行くんです。いわゆる観光地の鍾乳洞ではなくて、青木ヶ原の樹海にあるのとか。私が行ってたのは奥多摩ですね。
何しろ、そのへんに開いている穴ですから、中がどうなっているかってわからないので、代々の先輩方が手書きで地図を描くんです。先輩が残した地図をもとに入って行って、ここからはまだ行っていないから行ってみようと。で、新しくルートを見つけるとそこも書き足すという探検なんです。だから代々受け継がれた穴の地図があります。
テレビでもそういう鍾乳洞巡りの探検番組がありますよね。私が参加したパーティーがフジテレビの取材を受けてテレビにも出たんですよ。縦穴と横穴があるんですけども、縦穴は縄梯子を使って降りて行ったりします。横穴に入る時も頭からは入らないんです。足から入るんですよ。
能登原
それはどうしてなんですか?
三河
例えば、穴が最初は横だったと思ってたら、行くとちょっと上に向かって細くなって行き止まりだったとしますね。すると頭から入って行くと、戻ろうとしても戻れなくなってしまうんです。足から入っていくと、頭の方向に戻っていくことができます。それに、頭から先に行くと滑り落ちたりしたとき危険なんですよ。
能登原
それは確かに探検ですね。
三河
ケービングでは私は体が大きいので不利なんです。小さい人はスイスイ入るんですけども、みんなで潜っていって、狭いところがあると私だけ入れないんですよ。肩がつかえてしまって。ちょっと泣く思いをしましたね。置いて行かれるような感じになりますからね。必ずそこを通って帰って来るとは限らないんですよ。ルートがどうなっているかわからないので。
能登原
それじゃ、みんなと一緒に行けないと不安でしょう。
三河
もちろん、命綱はしていますけど。最初に行った時はトレーニングがてらだったんで、大体みんなが行ってよくわかっているところに連れて行ってもらうんです。でも、私は体が大きいから、チームにとって、狭くて入れない時は置いて行かなきゃいけない存在になってしまい、絶対最初には行けないというか、しんがりですよ。
能登原
その頃からある程度リスキーなところにチームで行くということには慣れていたわけですね。
三河
ええ、そうです。リスクはありますね。鍾乳洞の中で迷子になると、本当に笑い事ではなくて命取りになるんですよ。そもそも穴に入るまで結構険しい山道を行っているので、日が暮れるとますます厄介なことになります。うちのパーティーではないですが、捜索隊が出たことがあるそうです。
能登原
山で遭難するのと一緒ですね。
能登原
でも、大学院に進んだんだから、勉強もしていたんでしょ?
三河
いえいえ。大学院に入ったのは、あまりに勉強をしていなくて、このまま世の中に出ていいんだろうかと思ったのと、4年の研究室の実験や研究がすごく楽しかったからです。実験系は特にそうですが、一つのテーマを3〜4人のチームでやるんです。チームワークは非常に重要で、最初にその実験をするための装置の点検とかセッティングから入って、2交代制で大学に泊まり込んで何日もかけてデータをとるんです。次にその理論が正しいかどうかの分析とか考察作業に入るというのを繰り返しやるんです。
能登原
それが楽しかったわけですね。
三河
楽しかったですね。わからないことをチームで追い求めていくとか、徹底的にわからないところをみんなで追い求めるというようなところが染みついたのが4年生と大学院、その3年間でしたね。チームワークとかコミュニケーションとか、社会人になってから重要なことが身に付いたというか。それは、そのときの先生が良かったんですよ。清水文子先生という物理の先生です。
能登原
その方はどういう先生だったんですか?
三河
研究室にいい雰囲気を保つためにいろいろな努力というか工夫をされて、みんなのお母さんみたいな感じでしたね。だから居心地がよくて、研究室のOBも卒業してもよく来ていましたし、一時期私もそうでした。今はもう退官されて研究室もないんですけど。
清水先生は、研究だけではなくて研究室の中の日常生活、整理整頓や掃除についても、一方的に「こうしなきゃダメ」と言うんじゃなくて、「何でそうしなきゃいけないのか、理由は…」と必要性を熱心に説くタイプでした。そういう指導力についても学ばせてもらったと思います。
能登原
ずっとその先生につかれたんですか。
三河
そうです。前期課程(修士)間、ずっと清水先生につきました。専門は量子光学です。院の2年間は人に誇れるだけの勉強はしたと思います。ほんとうにそこだけですけど(笑)。学会発表のためにみんなで全国移動するのも楽しかったです。
能登原
それで、日本鉱業に入社したのはどうしてですか? 一度聞いたと思うんだけど、忘れてしまいました(笑)
三河
清水研究室のOB、ちょうど学校でいうと一回り上というんでしょうか、私が入学した時に卒業した先輩が日本鉱業の情報システム部にいらしたんです。
あの頃はOBが研究室に来て会社説明をやっていました。OBは先生にまずアポをとって、それで「何月何日何年卒の○○に入ったOBが会社説明に来ます」という情報が研究室と学科の掲示板に貼られます。興味がある人は研究室の中でOBをお待ちして、OBが会社案内を配って、どういうことをやっているのかということを話すというのが、その頃の物理学科で行われていたわけです。
能登原
研究室単位のリクルート活動ですね。
三河
電機メーカー、自動車メーカー、コンピュータメーカーもありましたが、光学系の研究をやっていたので、多かったのは光学機器関連のOBですね。そのOBが来て話をするんです。そのあと、まずはOBが所属する研究所を訪問させていただいて、あとは製造部署でもどちらかというと先端的なことをやっている部署を見学させていただいて、ほぼ電機メーカーか自動車メーカーかのどちらかという感じで自分の進路を考えていたんですね。
能登原
それが、どうして日本鉱業に?
三河
たぶんリクルートの後半か、一番最後の頃だったと思いますが、日本鉱業に入ったOBのHさんが来て会社説明をしていきました。そのあとで会社で面接と懇親会があって、その先輩とは2次会、3次会、4次会、5次会…何次会までやったか覚えてないですけど、朝まで飲んだんです。
しかもですね、私はその頃ずっと研究が続いていたので、週の半分は研究室で寝泊まりしていたんですが、Hさんは私と一緒に研究室に泊まってくれたんです。後輩の入社を強く希望されていたことと、徹底的に会社のことだとか、社会人になって自分が取り組んでいることを話してくれて、朝までつき合ってくれた。
それまで私は「こういう業界は次にこういう技術で伸びる」とか、「この会社にはこういう制度がある」とか、そういうことを中心に就職先を考えていたんですが、もうその一晩で「ここにしよう!」と。
能登原
なるほど、研究室OBの人間力で引っ張られた。
三河
もちろん、他にも面談していただいた課長さんだとか、人事の方だとかの影響もありますが、やはりなんといってもHさんですね。
その頃の日本鉱業は精製業と非鉄金属、精錬業が主ですし、うちの研究室からそういうところにいく人間もほとんどいなかったので、業種としては全く考えてなかったんですけど、Hさんにいろいろ話を聞くと、多角化をして電子材料や光デバイスもやっているというので、いろいろなことにチャレンジしているんだなと思ったということもあります。
実は日本鉱業は大分に佐賀関精錬所という大きな歴史的な銅精錬所があって、日本鉱業に就職をしようと決めて実家の父親に報告したら、「ああ、いい会社じゃないか、佐賀関に大きな精錬所があるよ」と言われて、「あ、あそこにあるでかい煙突は日本鉱業の煙突だったんだ」と、始めて知りました。
能登原
大分市から見えます?
三河
いや、近くに行かないと見えないですけどね。地元では知名度があるので、日本鉱業で大分出身の方は結構多いです。
能登原
三河さんは入社動機が全然、違いますね。
三河
ええ、違いますね。会社のビジネスだとか制度とかというところに着目したわけではなく、たまたまOBが非常に魅力的な人だった。
人それぞれ何で動機付けられるかは違うと思いますが、私は人に動機付けられることが多いですし、逆に、人を動機付ける時にも、「こういうことを一緒にやっていこうよ」とか、「こうするとたぶんうまく一緒にやっていけるよ」というように動機付けをします。
会社に入ってからも人に動機付けられたことはたくさんあります。またその動機付けによって自分が想定していない変化が生まれるのが面白いところだと思います。
だからあの時Hさんに会ってなかったら、たぶん今の自分はないです。電機メーカーや自動車メーカーの製造部門または研究部門に行っていたとしたら、自分は今どういう人間であるか全然想像がつかないんですけども、今ここで能登原さんとお話しているのも、まずはHさんに口説かれて会社に入ったとからだということですね。