85年に入り、私は、相変わらず企画の仕事(新規事業の模索)を行っていた。
上司が、英国に出張した際に、一冊の開発方法論の本を持ちかえってきた。
この本を元に何かできないかというのだ。私は、読んでみますと答えた。
本を読み進むうちに感じたことは、今までの日本でのシステム開発に対するアプローチが不適切だということだ。本に書かれているフォーマルな手法の理解が進むにつれて、システム開発にはもっと良い方法があり、この手法を勉強し日本で普及させて見たいという気持ちになった。
システムエンジニアとして仕事を一通り覚え、多少、自信が持てるようになったころの話だ。
本の内容から自分自身がたいしたレベルになっていないということが分かったと同時に、どうにもならない憤りを感じた。何かしなくてはという焦りと情けなさが、襲ってきたのだ。
すぐさま上司には、英国へ行ってノウハウを持ち帰ってきますと意志表示をした。
何で先の見通しも無いのにこのような決断をしてしまったのだろう。人には、運命というものがあるし、直感は、大切だ。自分の決断を信じよう。私が決めさえすれば上司は賛成することはわかっていた。このように英国行きが決まった。30歳だった。
夢と希望と少しの不安を抱え、待ち遠しい渡英の日がやってきた。妻と長男(1歳)と空港で別れた。妻は寂しそうではなかったが、私は寂しく思った。
85年7月30日に成田発−ロンドン行きJAL432便は、定刻より早くヒースロー空港へ到着した。当時のロンドンへは、アンカレッジ経由である。今のように直行便は無く、8時間ほどでアンカレッジに到着し、まずいうどんを食べるのだ。
東京なら許されない味であるが、アンカレッジでは、このまずさが、半年間日本へ帰れない郷愁の味となる。日本への別れを先延ばししたい心境の味だ。
ヒースロー空港への到着が近づいてくるにつれ、半年間の英国での技術取得と英国生活は、果たしてどのようになるのだろうか?いろいろな思いがめぐった。
空港で、カウンターの向こうに髭面の紳士が見えた。半年間私のパートナーになるジョンである。私も多少不安はあるが、ジョンは、私よりももっと不安そうに見える。
余裕を無理してでも見せなくてはならない。なめられてたまるか!
「はじめまして、私が、林です。」
髭は、「こちらこそはじめまして。お疲れではないですか?」と言った。
ジョンは、今から考えるとかなり不安がっていた。コンサルタントとして仕事のほうはイマイチなので、わけのわからない初めて接触する東洋人の担当にされたのだ。
この事実は後から判ったのである。かわいそうな人だった。誰が、好き好んで人種もカルチャも違う何を考えているかわからない東洋人の担当になるものか。想像できるでしょう。
兎にも角にも無事にロンドンに到着し仕事が始まった。彼が、押し付けてくる計画に文句を言って議論が始まるとジョンの頭の固さが邪魔をしてますます混乱する。机の影から、ジョンの、畜生!という独り言が聞こえた。
付き合っていくうちに付き合い方の学習効果が出てきて、何とか正常な関係が構築された。
BIS社は、80年代にロンドン中心にヨーロッパ、米国に拠点を持つコンサルティング、金融系のパッケージ、システムインテグレーションの事業を行う会社で、複雑なアプリケーションを開発するための体系的なメソドロジーを所有し、英国の政府標準の開発やロイヤルダッチシェル、ロイズ、ナットウエスト銀行、英国航空などの一流企業に開発手法やマネジメント手法とソリューションを提供する一流のSIベンダーであった。BIS社は、90年代に入りNYNEX社に買収されることになる。
私は、このBIS社に常駐し、コンサルタントと一緒に半年間行動することになった。
半年の間に6週間ほどのトレーニングプログラムの受講と日本でのカリキュラム実施のために準備、開発方法論の翻訳、コンサルタントとBIS社のクライアントへ同行し、コンサルティング実務のOJTなどを最初に計画し着実に実行に移して行った。
特に4泊5日の合宿コースは、日本人(外国人)には大変だった。初日の自己紹介に始まり、グループでのケーススタディが5日間続く。毎日発表が待っている。あるコースは、ロンドンから2時間ほどのイーストボーンという南の海岸沿いになる避暑地で実施された。避暑地のホテルは歓迎であるが、外国人を含む4-5人のチーム編成で毎日夜の10時過ぎまでケーススタディを行う。イギリス人、イタリア人、フランス人、エジプト人と同じグループになった。何とイギリス人以外は、全員、外国人ではないか。議論が進み延々とワークショップは行われる。一週間まったく日本語を使えない日々が続いた。
トレーニングに比べると、コンサルタントとの同行は勉強にもなるし楽しい。ガス会社に開発標準を導入するコンサルティングの現場に行く機会があった。英国のコンサルタントは、かっこよかった。質問に的確に応答し、ホワイトボードにER図を書きながら説明を始めた。私は、これがコンサルタントと呼ばれる人の行動だと思った。私もこのコンサルタントのように振舞えればカッコいいな。日本では見あたらなかった目指すモデルが、英国には存在した。
さらに方法論を自習し、翻訳を空いている時間に行った。方法論を知れば知るほど好きになったが、課題は、どのように日本で普及させるかである。私の人生の中で始めて充実したと思えるのが、BIS社で過ごした時期である。このような形で私のモデルベース開発方法論への最初の取り組みが開始されたのである。20年経った今、方法論が元になり、アイ・ティ・イノベーションが成り立っているのである。
きっかけは、一冊の本で、この本は、後に私が監訳を行い「管理職のための構造化システム開発・日経BP社」(*注)という名で世に出した。
私は、英国で仕事ばかりしていたわけではない。むしろ大いに楽しんだ。
英国の良さは、2週間や3週間では分からないと思う。2ヶ月ほどするとじわっと分かってくる。見えないものが見えてくるし、徐々に、しみ込んで来る感じだ。次回は、英国生活・遊び編を書くことにしよう。
(*注)「管理職のための構造化システム開発・日経BP社」廃刊
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