能登原
そして97年に、株式会社シナジー研究所を設立されたんですね。
依田
そう、新宿のワンルームマンションに事務所を構え、退職して1ヶ月後に登記に行きました。だから登記して事務所を作った段階では仕事の契約がなくて、それから営業に行ったんですよ。株式会社だから登記のときに1千万円は通帳に記帳されていますよね。それから「コピー機買わなきゃ」と100万円のコピー機を買いに行って、いきなり900万円になった。それが通帳の2行目です。
能登原
まさに一から始められたんですね(笑)。
依田
結局、1ヶ月営業したら、ほぼ自分の体はふさがったんですよ。まあ、今思えばご祝儀っていうのもあったんでしょうね。「あ、独立しちゃったの? 依田さん」って言われて「ああ、ちょっと待って! じゃあ何か依田さんに仕事作るから」「すみません」という感じでした。こちらに勢いがある時っていうのは、相手もびっくりして仕事を出しちゃうみたいですね。
能登原
それは依田さんがきちんとした仕事をされていたからでしょう。この世界は信頼関係で成り立っていますから、ご祝儀とはいえ信頼がない人に仕事は出さないですから。
依田
かなり大きな会社2社にコンサル契約をいただきました。97年頃はいい時代で「やっぱりシステム作ろうよ」という話になるわけです。今はそんなこと言わないですよね。
能登原
「どうしても作らなきゃいけないんだったら、少し作ってもいいけど」としぶしぶ作る(笑)。
依田
あの頃は「システム作ろうよ」で、それも「オブジェクト指向で予算できるっていうから、これでいこう」と言われて、「じゃ、それでいきましょう」みたいな感じでした。プロジェクトに入ってコンサルをやって、私の会社は小さいのでベンダーを決めて。さすがにその時には、ベンダーの上に立つ仕事ではなく、ベンダーの横にいて、お客さんの、いわゆるオーナーズコンサルをやるわけです。非常に面白い仕事をさせてもらいました。
能登原
依田さんの本領発揮ですね。
依田
2001年くらいまでは世の中が元気な時代が続きますから、システムもだんだん大きくなります。すると仕事は引き続き依頼されるし、噂を聞きつけて新しいお客さんも来る。そうこうするうちに、新規のシステムが大きくなっていくと今度はそのプロトタイプが始まって平行に走り出す。で、元のシステムがメンテナンスに入っていくとかね。そうなると「プロトタイプも依田さんのところで全部面倒を見て下さい」という話になります。こっちは嬉しいですよね。なおかつ「下に入ってベンダーをやりましょう」という会社にも、思わず「こんな大きい会社に下に入ってもらっていいんですか」と言いたくなるところが出てきます。そうなってくると、あっという間に「でっかくなる」んですよ。
能登原
組織が大きくなるということですか。
依田
ええ、97年に会社を作ってから2001年まで成長率が150〜200%くらいです。組織がでっかくなって事務所を六本木に移して、もう社長はいろいろな意味で大変(笑)。
能登原
人が増えるとまた大変ですね。
依田
でもそうそう上手いことばかりとはいかなくて、2001年、2002年くらいになるとちょっと風向きが変わるんです。私のところだけじゃなく、どこの会社も厳しい時代に入ってきます。新聞で景気のグラフを見ると、2002年くらいがボトムなんですね。
能登原
そうですね。デフレが始まりましたし。
依田
景気がもうすごいカーブで落ちてくる。今にして思えば、そのボトムの時に事務所を広げて人を採用してしまったわけです。そうすると「人、もの、金」の3点で社長はいろいろ大変になってきます。私も「このままではこの先、大変なことしかない」と思いました。それなら、ここで考え方を切り替えて、別の方向からまた楽しくやろう、やはり自分が楽しく中心になって仕事をやるのが基本である、と考えたわけです。「仕事を元の楽しい姿に戻すのが最優先だ」と。そこで思い切って一気にリフォームというか、組織の形も仕事の形も変えてしまったんです。
事務所はもう止めてしまって、自宅で仕事をすることにしました。「仕事が固まってきたら一緒にやります」という人たちとパートナーを組むことにしたわけです。
能登原
そこから現在の依田さんの路線になるわけですね。
依田
ええ、自宅で仕事というところまで組織は小さくしたんですが、それと反比例するように、「依田さん、知ってますよ」という人は逆に増えてきたような気がするんです。楽しく仕事をすることを追求していくと、人が集まってくるということじゃないでしょうか。
能登原
そうですね。楽しく仕事をしていると人脈はどんどん増えます。
依田
人脈と露出という意味では今の方がどんどん高くなっているかもしれません。
こうして対談する機会もあるし(笑)。当面はいい感じだから、これでいいかなとも思うし、今はいろいろ考えているところです。
能登原
もといらしたTECとも、非常に良好な関係を保っていらっしゃいますよね。
依田
今、仕事的の面ではTECに大変お世話になっています。コンサルはTECが窓口になっていて、それ以外の、例えばツールを売ったりセミナーをやったりという部分は私の会社が直接営業しています。
TECの同期はみな部門長とかになっていて、利益責任などの責任が重くなって大変そうなんですが、その様子を横目で見ながら、私は仕事の中身、プロジェクトマネジメントそのものをやらせていただいています。それは私がTECの仕事をもう一回やろうという時に望んだことで、その通りになっているんです。私のアドバイスがかなり生きる部分があるし、いま非常にグッドな状況ですね。
能登原
それはいいですね。一度辞めた会社の人たちとまた一緒に「じゃあ、やろうよ」と仕事ができる。その関係に持っていけるというのは。普通は辞めてしまうと疎遠になったり、会社の方に「あいつのことは使わないよ」という人がいたりするのが当たり前なんですけど。
依田
戻る方も入れる方も、両方太っ腹だったのかな(笑)。
能登原
実は私も、最近、以前いた会社の関連の仕事をいただきました。「一緒にやろうよ」と。
依田
いいじゃないですか。話が通じるのが早いでしょ。
能登原
そうですね、気心が知れていますからね。
依田
やりやすいし、楽しいですよね。
依田
今セカンドジェネレーション・オブ・シナジーについて構想を描いているところです。
能登原
先日お話しいただいたMDD(モデル ドリブン デベロップメント)の関連でしょうか。
依田
それもあります。ちょっとMDDに関して言いますと、私はMDDの中身はいくつかあるだろうと思っています。モデル駆動という「志があればMDDである」というレベルと、その対極に、私は今MDDのツールを売っていますが、そういうツールを使った、一番とんがったMDDがあって、その間にいろいろあると思うんです。
私が長くやってきたのは一番ゆるい定義のMDDです。「お客さんとUMLでモデリングしてやってみたら確かに早かった、生産性が全然違ったよ」というのはみんなMDDですね。それと、とんがったほうのMDDという意味では、ツールがこれから普及し始めるという感じでしょうか。大手のSI会社に実際にテスト評価してもらったり購入してもらったりして、雛形作りが上手くいっているところも出てきているんですよ。いまは基本的にR&D部門がやっていますから、これからはいかに現業部門を巻きこんでそこに売っていくかというのを考えているところなんですね。
能登原
ああ、なるほど。
依田
今描いている構想では、MDDももう少し広く捉えようかと思っていますが、やはりモデル駆動アーキテクチャの基本的なモデル変換の流れ、ビジネスと開発現場をモデルを使ってうまく変換しながらつなげていくという範囲からは出ないつもりです。
能登原
モデル駆動を軸にするということですね。
依田
テクノロジーから離れるわけではないですが、もう少し経営コンサル寄りの、例えばITをどう扱うかという切り口でやってみたいと思っています。結局MDDと繋がってはくるんですけど。
ITガバナンスと言うんですか、要は「企業も開発をもう少し自由にITをコントロールできなきゃだめですよ」「そのためにはビジネスの概念を整理し、ビジネスプロセスのモデル化など、モデル化をきちんとやりましょう」というところにスタンスを設定して、基本的には私が中心となったコンサルティング会社みたいなものを今構想中です。
能登原
現在の依田さんの目標はそれだと考えてよろしいですか。
依田
そうですね。結局、私のテーマとして一貫しているのは、物事をわかりやすくしようということです。「わかりやすくすると、もっと簡単に物事は進みますよ」ということを見せていきたいんです。わざわざ物事をややこしくする人たちがいるじゃないですか。
だけどこの先、国際社会で日本が勝つためには、物事をわかりやすくしないと無理ですよ。大会社の中にいると、それがわかっていても組織の論理があるから身動きが取れないかもしれない。でも私がやっている会社だったら、サポーターさえいれば何でもできる。そういう切り口でやってしまいたいですね。
能登原
それが依田さんの楽しい仕事の姿なんですね。
依田
結構ここまでが辛かったんですよ。辛いっていうのは、事務所を大きくしたり小さくしたりっていう辛さじゃなくて、結局自分のやりたいことが、まだ世間に受け入れられない。「何でわかんないんだよ!」という辛さでした。やっと世の中も変わってきて「モデル化をきちんとしないとダメですよ」ということが通じるようになって、組織の図体を大きくしなければいい仕事を着実にやっていけるというところまで、やっと来たと言う感じです。パッケージではないもの、金太郎飴でないものが求められ始めた雰囲気がありますから。
能登原
私もそう思います。やっと依田さんに時代が追いついた(笑)。
依田
先ほど、「テクノロジーから離れるわけではないけど」と言いましたが、私自身、実はちょっと「テッキー」というか、テクノロジーに走っていた部分があって(笑)、それを少し修正したんです。どういうことかというと、モデル変換の筋道を付けるというところでツールを使って「いかに繋げるか」を本当に厳密に考えていたところがあるんですよ。例えば、「XML変換を使ってここまできたら、このドイツのツールのあれをこうやって使えば繋がるよね」って一生懸命繋げ方を考えていたんです。「どうしてもここが繋がんねぇと。JAVAでこうなって、それで、こっちがRDBで、ここが繋がんねぇなー」というのを、独立したという緊急事態だったのにも関わらず、ゆっくり追求していたみたいなところがある。六本木の事務所をでっかくして人まで雇いながらやっていたんですね。それが今、本当に繋がってコンパイルして走るっていうところまできたんですよ。
それがわかっちゃったらね、「もう、あんまり大声出して説明しなくても、余裕で言えばいいじゃないか」という気持ちになりましたね。
能登原
依田さんにとってみれば、今まで追及しながらもどうも納得いかなかったところが、すっきりわかるレベルに達したんですね
依田
繋がるんです。バッチリなんです。今、「もう仕掛けがわかっちゃったから、俺、勿体をつけてしゃべりますよ」みたいなモードと言えなくもないんですが(笑)。
能登原
なるほど。普通の人は、繋がらなくてモヤモヤして最後まで行かないんですけど、依田さんは追及されて、ついに繋がった。やはり、そういう性分なんでしょうね。
依田
性分ですね。でも本当によかった。「もうわかったから、やっと引き返せたぞ〜」という気分です。整理がついたのはここ半年くらいですよ。だからやっと、こちらに戻ってセカンドジェネレーション・オブ・シナジーだと。
能登原
そういうことですか。数年来のモヤモヤが晴れたところでしたか。
依田
ええ。今とてもいい気分ですよ。仕事は楽しいし。やっと本道に戻れるし。
能登原
最後にひとつお聞きしたいのですが、依田さんの中でプロジェクト管理の位置付けとはどういうものなんですか。
依田
そういう意味では今ね、私、「ウッシッシ状態」なんです。
能登原
ウッシッシですか?
依田
一応私はプロジェクト管理について、今はもう古いのかも知れないけど、例えば、アメリカの国防省規格とか、けっこう優等生みたいな勉強もしてきたわけですよ。そのあとずっとプラント会社でやってきた。その蓄積をやはりITの開発に応用したい。ITを今のように経営と開発現場がプツンと切れた話じゃなくて、生産ラインとして繋げ、そこのところにプロジェクト管理を上手く当てはめて生産管理みたいにしていきたいというのがあったんですけど、ライン化するのに、さっき言ったように、どうしてもブツ切れになっているのが気になって気になってしようがなかった。で追求していたら、大体わかっちゃった。
何がウッシッシかというと、プロジェクトマネジメントとか生産管理は一応やってきたんで、「もうこれが繋がったら、あとは『いただき』ですね!」という感じなんですよ。
能登原
ああ、なるほど!
依田
ちゃんとラインとして見えるようになってきたので、あとプロジェクトマネジメントと組み合わせていけばいいのかなっていう段階です。だけど、振り返ってみると忘れていることがたくさんあるんで、ワークブレイクダウン・ストラクチャというようなところから基本をやり直すつもりです。それをMDDのプロセスに当てはめるようなことを、お客さんと、あるいは一緒にやってもらえる人と、まあ、かっこよく言えば楽しみながらやりたいというのが割と正直な気持ちですね。
能登原
今日は依田さんにお話を伺って、私自身の経験と非常に近いところがあって、その時の気持ちを思い出したり、共感することが多くて、とても楽しかったです。
依田
こちらこそ、こういう機会をいただきありがとうございました。